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記号みたいな文章

以前は、「記号みたいな文章を書かない」ように小説を執筆する際には気をつけていました。
「記号みたいな文章」とは、「と僕が言った」とか「こちらへどうぞ」みたいに、意味は通じるけど、読んでも面白味がない文章のことです。
自分で書いていても面白くないのだから、他人が読んでも面白くないだろうと、記号みたいな文章をできる限り排除しようと苦労していました。
「言った」と書かないために、「顔をこわばらせた」とか「糸のような細い声を吐いた」みたいに慣用句や比喩を用いるようにしていました。

まあ、これは僕だけではなく、多くの小説家志望の人が陥る病みたいなもので、みんな一度は苦心惨憺したことがあるはずです。

プロの小説家がみんな「記号みたいな文章」を排除しているかというと、そんなこともありません。
文章の美しさに重きを置かない小説では、むしろ記号みたいな文章が好まれる傾向にあります。「記号みたいな文章」は、道路標識や地図記号と同じようにわかりやすく、意味が容易に伝わります。
やたらわかりにくい比喩表現より素早く読めて内容がわかる文章の方が読者に喜ばれる小説があります。ミステリーのようにストーリーによって読ませる類の小説です。

ハードボイルドというか硬質な文体を好む作家だと、あえて記号みたいな文章を用いることがあります。
ある小説家が「登場人物が喋っているなら、余計なことを考えずに『言った』と書け」と教えていました(誰だっけ? スティーヴン・キング?)。
オーディオブックで村上春樹著「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を聴いたときに、「と僕は言った」があまりに多いのに驚きました。耳で聴くと黙読よりも同じ言葉の繰り返しがよくわかります。
おそらく村上さんはハードボイルド調の文体にするために、あえて飾り気のない文章を採用したのだと思います。村上さんだから文体と小説がマッチして成功しているけど、他の小説家が真似をすると、怪我をすると思いますが。

「記号みたいな文章」が悪いわけではなく、小説の内容にあった文体を選択しようということなのでしょうね。
最近は、小説の内容によって「記号みたいな文章」を用いるかどうか使い分けるようにしています。